「Kostel Panny Marie pod řetězem 鎖下の聖母教会」はカレル橋の袂に有るあるユネスコ世界遺産、チェコ国宝として登録されている教会です。
鎖下と冠される由来は、”教会に鎖を首に巻いたマリア像が有った説””教会近くに鎖で船を泊めていた船着場が有った説””鎖の下に教会が建っていた説”が有ります。
本当に有った鎖
Vladislav I.ブラディスラフ1世王の要請によりマルタ騎士団(Sovereign Military Order of Malta)がマラー・ストラナ地区にやって来たとき、マラー・ストラナ地区は*Juditin mostユディト橋からプラハ城が有るフラチャニーの丘まで強固な要塞で囲まれていました。Vladislav I.ブラディスラフ1世王は、外敵が襲い辛いユディト橋門から少し離れた安全な場所に教会用地を用意しました。
マルタ騎士団がKostel Panny Marie 聖母マリア教会を建てた場所からは橋塔に提げられている、門を開閉するための鎖が見えました。そこで人々は「Kostel Panny Marie pod řetězem 鎖下の聖母教会」と呼ぶようになりました。
[参考文献;Pražská informační služba]
籠の中の教会
Vladislav I.ブラディスラフ1世王の要請によりマラー・ストラナ地区に来たマルタ騎士団(Sovereign Military Order of Malta)は、*Juditin mostユディト橋の橋搭近くにKostel Panny Marie 聖母マリア教会を建立しました。
Vladislav I.ブラディスラフ1世王は、折角布教のために来ていただいたのに外敵に襲われては大変だと、教会を強固な壁で囲い、更に上からの進入を防ぐ為に鎖でフェンスしました。
そこで人々は「Kostel Panny Marie pod řetězem 鎖下の聖母教会」と呼ぶようになりました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
*”Juditin mostユディト橋”は、カレル橋が架けられる前に架かっていた橋で、カレル橋は”Juditin mostユディト橋”の二代目といえる。
同教会を訪れると、上記二説のどちらか一方、あるいは両方が真実に近いと感じさせられます。
教会は強固な壁で覆われていた痕跡があり、またJuditin mostユディト橋の時代から橋搭として使われたいた「Malostranské mostecké věže マラーストラナ橋搭 」も直ぐ近くに有ります。
最初の教会建物は修道会が設立されたとされる1158年年前後に建てられます。
1314年に拡張工事が施されます。
1378年に死亡したカール4世 (神聖ローマ皇帝)の分骨された遺体が安置されました。
16世紀後半にルネッサンス様式の建物に改築されます。
17世紀にバロック様式に改築され現在の姿に近い容姿となります。
王の風呂
「Kostel Panny Marie pod řetězem 鎖下の聖母教会」は”Lázeňská uliceお風呂通り”に位置します。この通りの名前はバーツラフ4世から頂いています。
統治者としては失格だったヴァーツラフ4世ですが、民衆からの評判は良かったバーツラフ4世はかって投獄された事があります。投獄生活中風呂に入れなかったバーツラフ4世は、入浴を申し出ました。この申し出は受け入れられ、入浴するためにブルタバ川沿いの風呂付の家へ連れられ入浴しました。そして入浴後、川の水で体を冷やすため川岸に行く事が許されました。
この時バーツラフ4世は、入浴を手伝ってくれたズザナと云う町女に、脱獄の手伝いを願いました。彼女は彼女の服を王に着せ、樽船に乗せて川の対岸まで連れて行き王を逃しました。
その後、バーツラフ4世が王位に返り咲くと、ズザナの家を立派な館に建て替えました。その館がこの辺りに有ったのです。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
住所;Lázeňská, Praha 1 - Malá Strana
「Kostel Panny Marie pod řetězem 鎖下の聖母教会」周辺地図
2010年6月16日水曜日
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