2010年6月14日月曜日

勝利の聖母教会 Panna Marie Vítězná

「Panna Marie Vítězná 勝利の聖母教会」は”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”で有名な教会です。”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”を見る為に、スペインを始めラテン系諸国にフィリピンから巡礼団が訪れているほどの教会です。2009年9月2日には教皇ベネディクト16世も巡礼しています。スペイン語では”Bambino di Pragaバンビノ・デ・プラガ”と云います。

伝説によると、ある修道士に彼の姿を真似て幼きイエス像を作るようにお告げが有り作成されたという話と、アビラのテレサが作成したとも言われていますが、作成の経緯やララ家女性が代々受け継いでいた経緯は謎のままです。

”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”は、スペイン貴族の娘Marie Manrique de Lara y Mendozaがマリエ・マンリック・デ・ララが、チェコ貴族Vratislav II. z Pernštejnaブラティスラフ2世ペルンシュテイン公の元に嫁ぐ事になった時に、花嫁道具の一つとしてスペインから持ち込んだ人形です。その後、娘PolyxenaポリセナがLobkovicロブコビィツ家に嫁ぐ時、花嫁道具として母から娘に引き継がれます。
熱心なカトリック信者であった娘Polyxenaポリセナは、”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”に”ji v uctivosti a dobře se vám povede 光栄がもあなたとともに!”と云う言葉をかけ、1628年カルメル会修道院「Panna Marie Vítězná 勝利の聖母教会」に寄贈しました。それは、彼女には”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”を受継いでもらう娘が居なかったからです。
現在、”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”は年に10回着ている服を着替えます。

おテテかえして~っ!
1631年にザクセン公国軍がプラハを占拠した際に”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”も何者かにより持ち去られました。1637年に両手を失い捨てられていた”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”をチリル神父が見つけます。見つけたチリル神父に”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”は
„Smilujte se nade mnou a já se smiluji nad vámi,
私を哀れんでください、私は貴方を哀れみます。
dejte mi moje ruce a já vám dám svůj pokoj,
私に腕をください、私は貴方に平安を与えます。
jak mne budete ctít, tak já vám budu žehnat!“
その後私に抱く感情に応じ、貴方を祝福します。
と話しかけました。
チリル神父は直ぐに両手を職人に作らせ、元に有った「Panna Marie Vítězná 勝利の聖母教会」の祭壇に納めます。
この時以後、”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”は数々の奇跡を引き起こし、プラハの守護、チェコの守護、ラテン系の守護、世界平和の守護として親しまれます。
[参考文献;Pražské Jezulátko – Kristus jako dítě a král]

おテテのお礼(最初の奇跡)
「Panna Marie Vítězná 勝利の聖母教会」には、人々に祝福を与える為に右手をかざし、左手に地球儀を持っている、Lobkovicロブコビッツ家Polyxenaポリセナ夫人から寄贈された”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”が安置されています。
1631年にザクセン公国軍がプラハを占拠した際に”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”も戦利品として持ち去られました。
しかし、ある日突然”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”は元々有った「Panna Marie Vítězná 勝利の聖母教会」の祭壇で発見されます。しかし、両手は失われていました。”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”を発見した修道士が腕をつけて祭壇に飾りましたが、いつも朝には腕が落ちていました。そこで修道士は毎朝腕を着けるのが日課となっていました。
修道士が”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”の腕が元に戻りますようにと熱心に祈ったある日、夢枕に”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”が現れ腕の修理を頼まれたと言う人が現れ、腕を修理して帰りました。以後腕は落ちることが有りませんでした。
その後、泥棒が”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”を盗もうと触ったところ、”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”は泥棒を掴んだままとなり、泥棒は逃げることが出来ませんでした。
泥棒が反省すると、”Pražské Jezulátkoプラハの幼きイエス”は手を離し泥棒を開放しました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

さて教会建建物ですが、元々この地には1611年から1612年に架けて建てられたルター派の教会が建っていました。白山の戦い以後に始まる再カトリック化の流れにより主を失った教会は、1624年フェルディナント2世の命によりカルメル会に引き渡されます。
カルメル会は元有った教会を全て取り壊し1636年から1644年に架け教会を含める修道院施設を建替えました。
別の修道会が同教会を利用していた時期も一時期ありましたが、概ねカルメル会が利用してきました。現在もカルメル会修道院です。

住所;Karmelitská, Praha 1 - Malá Strana
「Panna Marie Vítězná 勝利の聖母教会」周辺地図


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