2010年7月22日木曜日

[プラハ城]聖ビート大聖堂伝説 Legendy o chrámu svatvítském

スヴェントヴィトと掛けて聖ビートと解く
聖ビート大聖堂が建設された頃、人々はまだスラブの太陽神スヴェントヴィト神信仰を捨てきれずにいました。
そこで、音が似ていることも有り、聖ビート大聖堂をスヴェントヴィト神寺に見立て、チェコ各地からスヴェントヴィト神が最も好むとされている黒鶏をを捧げる為にお参りに来ていました。
聖バーツラフが大聖堂の守護聖人として聖ビートを選んだのは、ドイツ王ハインリヒ1世から聖遺物「聖ヴィートの腕」を与えられたからですが、同時に民衆がキリスト教への改宗に抵抗を感じないように、スヴェントヴィト神によく似た響きを持つ名前の聖人を選んだとも云われています。
たが為でしょうか、19世紀頃まで人々は祈りの捧げものとして鶏やお菓子を捧げていたそうです。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA;Wikipedia]

聖十字架釘
聖ビート大聖堂の宝に、教皇から拝領したイエス・キリストが磔刑された十字架の釘があります。
この釘はカレル4世がカレルシュテイン城の聖カレジナ礼拝堂に保管していましたが、後に聖ビート大聖堂に移されました。
この釘はキリストが磔刑された時に、キリストの右腕に打ち付けられた釘で、大変貴重なものです。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

ローランの角笛
聖ビート大聖堂の宝物には、或る収集家が聖ビート大聖堂に持ち込んだと云われている、綺麗な装飾を施された角があります。この角はローランの歌で有名な勇敢なローランが戦闘時に使用したラッパで、戦場では良く響き渡りローランに勝利をもたらしていたと云われています。
このラッパはフェルディナンド1世時代1541年にプラハ城からマラー・ストラナに掛けて発生した大火の際に大活躍しました。
火事を知らせる大聖堂の鐘が、大聖堂尖塔に続く階段も火事だった為に、鳴らせませんでした。そこで皇帝は機転を利かし、この角笛を吹き鳴らし火事を知らせました。ローランの角笛は良く響き渡り、多くの人々の命を救いました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA;Římsko-katolická farnost Neposkvrněného početí Pnny Marie;]

聖ボイテェフの手袋
チェコ人であった聖ボイテェフは、キリスト教布教のため、司教としてローマからチェコへ派遣されましたが、彼の一族が皆殺しにされた事を切っ掛けに、ローマへ向かうことになりました。
聖ボイテェフがローマに着いて3日目に、彼が行うミサに教皇、枢機卿が参加しました。彼はミサの最中、死んだように身動き一つせず熱心に祈りを始めました。2時間経過した辺りで、教皇はミサを続行するように促しました。
聖ボイテェフは深い夢の中から戻ったかのようにミサを再開しました。ミサが終わると、ミサが始まる前に嵌めていたはずの手袋を嵌めていなかったので、手袋を着用するように促されました。
聖ボイテェフは、たった今兄弟の葬式のためチェコに赴きました。その際手袋はチェコに置いてきたと説明しました。
たった2時間でローマとチェコを往復出来るはずも無く、しかも目の前で聖ボイテェフは死んだ様にお祈りを捧げていたのです。教皇はこの言い訳を信用できませんでした。
実際この手袋はリビチの教会で発見されています。
現在この手袋は、聖ビート大聖堂とスタラー・ボレスラフの聖バーツラフ教会に安置されています。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

ライオンの飾り
聖ビート大聖堂のドアには真鍮で出来たライオンの頭があります。教会を巡礼する信心深い人々を守ると信じられています。
チェコの守護者である聖バーツラフは、弟のボレスラフから子供の洗礼式に招かれました。この時既にボレスラフは兄バーツラフを殺害する計画を建てていました。
バーツラフがボレスラフの元に着いた翌朝、ボレスラフは聖バーツラフが御堂で熱心に祈っている姿を発見しました。ここぞとばかりにボレスラフは兄に持っていた刀を切りつけると、聖バーツラフは「神よ、ボレスラフを許したまえ」と叫び息絶えました。
その後、聖バーツラフは倒れるどころか、まるで生きているかのように、立ったままじっとしていました。
何と教会のドアに装飾として施されていた真鍮で造られたライオンに支えられていたのです。
この真鍮は、キリスト教信者のお守りとして聖ビート大聖堂に移されました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

聖バーツラフ礼拝堂の鉄篭
聖バーツラフ礼拝堂にはキリストの一生を描いた絵画が飾られています。
その絵の下に鉄篭が差し込まれた磔刑のキリスト画があります。
その昔、チェコでは神判と云って、火の付いた石炭がくべられている鉄篭の中に手を入れ、無傷で手が出てきたら自らの無実を証明できるという習慣がありました。この裁判は、プラハでは聖バーツラフ礼拝堂前で行われたいました。
皇帝カレル4世はこの悪習を辞めさせ、記念に鉄篭を大聖堂に飾ることにしました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

閉ざされたバーツラフ礼拝堂
皇帝カレル4世は、騎士を始め多くの民に迫り来る敵に対し、ブラシーで迎え撃つ為、戦いに備えよと勅書を発行しました。
また当時の慣わしに従い、兵隊ではないブラシの人々から略奪をしてはならぬと命令しました。
命令に反し、無防備なブラシの人から略奪する人もいました。
特にミハロビィツ一族は女、子供が皆殺しにされました。
ミハロビィツ家の奥さんは命からがらプラハにたどり着き、聖ビート大聖堂の聖バーツラフ礼拝堂で“、ミハロビィツが勇敢に戦い、彼女の元に無事帰って来るよう”と毎日祈りました。
ある日、奥さんが祈りを捧げようと聖ビート大聖堂に向かうと戸が閉ざされていました。
聖ビート大聖堂の関係者が鍵で開けようとしますが開きません。鍵屋を頼んで鍵を開けようと試みましたが、鍵を開けることは出来ません。
何をどう頑張っても鍵が開かなかったその時は、ミハロビィツがブラシーで戦い果てた丁度その時でした。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

聖ラディムの奇跡
一人の神父が、聖ボイテェフの兄弟である聖ラディウムの墓が有る、聖バーツラフ礼拝堂で熱心に祈っていました。その時、神父の前に明かりを灯さなくて良いほど光った手をした若者が現れました。
そして、「聖ボイテェフの兄弟である聖ラディウムの墓は何処ですか?私は彼の墓前で祈りをし、蝋燭を灯したいのです。」と尋ねました。神父は「ラディム神父の墓はここですが、ラディム神父は列聖されていません。」と答えました。
すると若者は、何故ラディムが聖人であると思ったかを説明しはじめました。
それによると、若者はこの直前までポーランドとの戦争で捕虜として捕まり、ポーランドのクラコフに有る地下牢に閉じ込められていたのです。そして、チェコの守護聖人を通して助けを求める祈りを捧げていました。
すると若者の目の前に、後光が光る白い衣装の人物が現れました。白装束の人物は“私は聖ボイテェフの兄弟ラディムです。貴方は私の墓守をする大切な人です。だから貴方をここから解放します。”と告げました。すると若者はいつの間にか聖ビート大聖堂の聖バーツラフ礼拝堂にいたのです。
聖バーツラフ礼拝堂は正に聖ラディムの遺体が安置されている場所です。神父は、ラディム神父が列聖されるようにと、この事実をローマに報告しました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

聖ビート大聖堂に燈るユダヤの明かり
聖ビート大聖堂の聖ルドミール礼拝堂には鉄で出来た巨大なローソク立てが飾られています。このローソク立てには人間や動物を模ったグロテスクな装飾がなされているので、人々に気味悪がられています。
このローソク立ては、元々エルサレムのソロモン教会の柱にあった12本のローソクを模した飾りでした。この飾りをローマ兵が戦利品としてローマに持ち帰ったものです。ローマ皇帝ティトゥスはこの内2つをエルサレム占領記念としてミラノ軍に贈りました。
ブラディスラフ王がミラノに攻め入るまで、このローソク立てが飾られて大切に保管されていました。
ブラディスラフ王はミラノとの戦いで勝利した時、戦利品として内一つを持ち帰りました。
このローソクは、元々現在聖人として祭られている聖ヤン・ポムツキーの墓の有る辺りに飾られていました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

カレル4世の死を悼むプラハの鐘
建国の父カレル4世が死の床に就いたとき、彼の周りには悲しみに沈んだ子供たちや宮廷の使用人が集まりました。プラハ市民は悲しみに暮れました。プラハ司教はカレル4世の為に祈りを捧げました。
カレル4世が子供たちを最後の別れをしていた時、彼の顔は後光で輝いていました。その時カレル4世は“神様が私を呼んでいる。私はあの世で神様と共にあなた方を見守っている。”と言葉を残し息絶えました。すると聖ビート大聖堂の鐘は、カレル4世との別れを惜しむかのように鳴り響き、プラハ市民に皇帝の死を告げ知らせました。
聖ビート大聖堂の鐘守は、この金の音を聞き驚きました。お城からの知らせが来たら何時でも出動できるようにと、鐘楼ドアの鍵は彼が手に持っており、鐘楼に入り鐘を鳴らすことは誰も出来なかったからです。
鐘守は驚いて鐘楼に向かうと、鐘は無人で勝手に鳴り響いていました。この事実を確認したその時、プラハ中の鐘が一斉に鳴り響きました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

聖ビート大聖堂の救済者
プラハ市がフス派に占領されたとき、人々は金目の物を盗もうと聖ビート大聖堂に押しかけました。その後ビシェフラッドの教会で起きたように、大聖堂を取り壊そうとしました。群集は大聖堂に向かい、祭壇、銅像、絵画などを大聖堂前広場の火に投げ込みました。大聖堂は強奪され、取り壊されるのを待つばかりの状態でした。
とその時、マラーストラナのビール製造業者達が、せめて大聖堂の建物だけでも守ろうと、機転を利かし神も居なくなり空になった建物をビール工場に利用したいと申し出ました。この申し出により、聖ビート大聖堂だけではなく、現在聖バーツラフ礼拝堂に納められている聖バーツラフ像も取り壊されずに済みました。
この事を記念し聖バーツラフ礼拝堂に安置されている聖バーツラフ像には、ビール製造業者が大聖堂を守ったと書かれています。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

聖ビート大聖堂に通うユダヤ人神父
その昔、ユダヤ人が聖ビート大聖堂の神父に成った事がありました。彼は子供の頃からキリスト教の神父に成りたいと願い、大人になってその夢が実現したのです。
彼は聖ビート大聖堂で長く神父として働いていましたが、年老いてくるとユダヤ教を懐かしく思い、またユダヤ教に戻りました。彼は天国に召された後旧市街のユダヤ人墓地で永遠の眠りに就きました。
しかし、神父は永眠に就いた寝床の居心地が悪く、毎晩のように彼の骸骨は夜な夜なブルタバ川を渡りマラー・ストラナを経由して聖ビート大聖堂に通いました。そしてパイプ・オルガンに座ると大聖堂音楽を奏で満足していました。
遂に神父は神に許しを願いました。しかし、一度他界した人の願いは最後の審判で待たねばなりません。
そこで神父の骸骨は、毎夜ユダヤ人墓地から聖ビート大聖堂に通うことに成りました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

親切な聖ヤン・ネポムツキー
マラー・ストラナの未亡人が遺産相続を求め、皇帝に嘆願書を提出することにしました。当時の法律では、彼女に遺産相続権はありません。相続が出来ないと引越しを余儀なくされ、聖ビート大聖堂の聖ヤン・ネポムツキーが葬られている礼拝堂でお祈りを捧げることが出来なくなります。
彼女は信仰深き女性で、嘆願書提出前に聖ビート大聖堂の聖ヤン・ネポムツキーが葬られている礼拝堂でお祈りを捧げることにしました。祈りの最中、嘆願書を聖人の墓上に置いていました。祈りが終わり墓の上を見ると嘆願書が無くなっています。どんなに探しても見つけることが出来ません。
仕方なく彼女は嘆願書を書き直し翌日提出することにしました。翌日も提出前に聖ヤン・ネポムツキーの墓前で祈りました。お祈りの際は、再度墓の上に嘆願書を置きました。
祈りが終わり墓の上を見ると、見知らぬ神父が昨日の嘆願書の回答を持ってきました。そうです。何者かが皇帝に嘆願書を提出していたのです。封筒には、未亡人が遺産相続することに同意する皇帝の署名付き許可書が入っていました。
彼女が裁判所にその許可書を提出すると、裁判官は信じられないとわざわざウイーンまで赴き皇帝に真偽の程を尋ねました。皇帝は、神父の格好をした何者かが嘆願書と許可書を皇帝の元に持ってきて署名を求めたそうです。皇帝は神父の説明に納得して署名をしたとの事。
当時はどんなに早馬を飛ばしても一日で往復出来ない距離を往復し、司教様でもないのに宮殿に出入り出来る神父とは何者なのでしょうか?
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

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