2010年10月21日木曜日

[ビシェフラッド]聖ペトロと聖パベル教会 kostel sv. Petra a Pavla

「kostel sv. Petra a Pavla 聖ペトロと聖パベル教会」はビシェフラッドに聳え立つシンボル的な教会です。
建設は11世紀後半に始まりましたが、その後数々の増改築を繰り返し、今日の姿になったのは1903年の事です。

ビシェフラッド城の教会建設
ブラティスラフ2世王はビシェフラッド城に聖ペトロとパベル教会建設を約束しました。この約束を実現するために、ローマ法王の元に使者を送り建設許可を求めました。また同時にローマの聖ペトロ教会に似せた教会を建設するために、同教会の見取り図作成を使者に命じました。
ローマ法王は建設許可を下しただけでなく、地鎮祭に代理の者を出席させ、礎石に許可書を奉納させました。
ブラティスラフ2世王は痛く感激し、地鎮祭の際にコンスタンティヌス帝の逸話の通り、自ら鍬を持ち穴を掘りそこに12の石を埋めました。
教会内部はローマの聖ペトロ教会に似せた豪華な装飾を施しました。この教会はフス戦争の際に破壊されました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

聖ペトロとフリードリッヒ
聖ペトロとパベル教会の左側壁には、フリードリッヒ公爵が聖ペトロに鞭打たれている姿の絵が飾られています。これには、以下の様な逸話が残されています。
フリードリッヒ公爵は、騎士ハブロフを大変気に入っていました。そこで騎士ハブロフに広大な所領を与えました。特に新しく出来たビシェフラッド教区に属するスブロビツェはフリードリッヒ公爵が大切にしていた土地です。公爵は同地の教会を取り払い、騎士ハブロフに与えました。
その夜、聖ペトロが夢の中に出てきて、教会を元に戻すように告げました。フリードリッヒは、気にも留めずにいましたが、翌日騎士ハブロフも同じ夢を見たことをフリードリッヒ公爵に告げました。
翌日夜、フリードリッヒ公爵が転寝していると、聖ペトロが現れ「不公正な奴め!起きろ!」と怒鳴りました。フリードリッヒ公爵が気にも留めず再び眠りに入ると、聖ペトロは鞭を打ちつけ教会を元に戻すように怒鳴りました。朝起きてみると、鞭打たれた後が体にクッキリ残っていました。
この逸話を元に、絵が描かれビシェフラッドの聖ペトロとパベル教会に保存されています。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

ビシェフラッド城の奇跡を呼ぶ絵
ビシェフラッドの教会には聖家族の絵が飾られています。
伝説によると、絵師でもある聖ルカが描いたとされています。そこでこの絵には不思議な力があると云われ、実際数々の奇跡を起こしています。
例えば、或る異常乾燥で雨が降らなかった年に、この絵を通して恵みの雨を願ったところ、直後にプラハは急に湿っぽくなり、適度な雨が降ったそうです。
この絵は、ルドルフ二世蒐集品の一つです。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

聖ロギンの墓
ビシェフラッドの教会には棺桶に似た石があります。この石は元々聖歌隊席の下に横たわっていました。
言い伝えによると、この石はカレル4世がローマからビシェフラッドに運んだ、かつてローマ傭兵で左腹に槍を受け死亡した聖ロギンが永眠していた棺です。
フス派が教会を荒らした時に、棺桶ごとブルタバ川に投げ落とされました。しかし石で出来ているにも拘わらず棺桶は沈むどころか浮いていました。遺体は川底に沈んだにも拘わらずです。
棺桶が浮いている辺りでは、突き落とした敵兵は溺れることなく無事で、フス派は狼狽しました。更に、棺桶が元有った辺りでは夜に成ると星が輝き、フス派兵は川で溺れる現象が始まりました。
フス派は恐れおののき棺桶を引き上げ、新市庁舎に運び込みました。しかし、棺桶は重く建物の床が持たないので、魚市場で水槽として利用するために市場に運ばれましたが、棺桶は中で泳いでいた魚を全て飲み込んでしまいました。
フス派は、元有った場所に戻すことにしました。以後不思議な現象は無くなったそうです。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

Vyšehrad Katedrála sv. Petra a Pavla Praha


住所;Štulcova, Praha 2 - Vyšehrad
「kostel sv. Petra a Pavla 聖ペトロと聖パベル教会」周辺地図

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