旧市街広場北面に聳え立つ「kostel Panny Marie před Týnem (Týnský chrám)ティーン前の聖母マリア教会(ティーン教会)」を御紹介しましょう。
一般的には「Týnský chrámティーン教会」と呼ばれていますが、正式には「kostel Panny Marie před Týnem ティーン前の聖母マリア教会」と呼びます。
『Týnティーン』前の『kostel Panny Marie聖母マリア教会』と云う意味です。
以下一般的に呼び慕われている「ティーン教会」で表記します。
ティーン教会が建っている場所は、元々11世紀頃に建てられたロマネスク様式教会が建っていました。
この教会は、13世紀半ば以降に早期ゴシック様式のティーン教会に建替え工事が始まります。
教会完成は20世紀まで待たなければ成りません。
1427年より白山の戦いでカトリック側が勝利を納めるまで、実に2世紀もの間、ティーン教会はフス派に占拠されます。
カトリック側奪還後、フス派風に増改築された部分をカトリック風に改築されます。
1819年に火事に遭い、1835年の修復工事を経て現在の姿となります。
1973年から1995年の大修復工事を以って、教会外観建設はようやく完了します。
内装工事は現在も続いています。
このティーン教会には以下の様な言い伝えが有ります。
『プラハ最初の教会』
初代ボヘミア王ボジボイが聖チリルから洗礼を受けた時、プラハにチェコ初の教会を建立すると神に誓いました。彼は、プラハに戻った時に、ティーン館の外壁が有った辺りに聖母マリア教会を建てました。
言い伝えに因ると、聖チリルと聖メドジェイに因って礎石は据えられたそうです。
これを記念に両成人像が教会聖堂に祭られたとのこと。
また同教会からLudmilルドミール妃の館(現在のdům U Sixtůシクストの家)まで通じる通路が有ったそうです。この通路は、今でも地下室として残っています。これは、同妃が夜に教会へお祈りに行くために掘られたものだとされています。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
『ティーン教会の聖杯』
フス派時代にティーン教会の正面には金装飾された聖杯が飾られていました。
しかし、聖杯が飾られて直ぐ、フス派の敗北を予言するかのように、聖杯に害虫、蛇、蛙などが住み着き、見栄えが汚く、プラハの恥部となりました。
フス派は聖杯を信仰のシンボルとしたかったのですが、こうなると笑いの的と成ってしまいました。
白山の戦い後、聖杯は取り除かれました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
*史実によると1626年に聖杯は取り除かれました。
『ティーン教会の天井』
ティーン教会はフス派占拠後同派により痛めつけられました。
再び平和な時代が訪れたとき、人々は直ぐにでも修復工事が出来るようにと、教会前に足場に必要な木を捧げました。
しかし、時のジギスムント (神聖ローマ皇帝)はフス派のロハーチとその仲間を絞首刑するために、その木を利用しました。
その数年後、時の王ラディスラウス・ポストゥムスがフランス人王妃フランス王シャルル7世の娘マドレーヌとの結婚祝いの為に、騎馬戦(ホース・バック)の為に足場として利用しました。 その直後、ラディスラウスは1457年11月23日、プラハで突然死去しました。
プラハ市民はラディスラウスが木材を他の目的に利用し天罰を受けたと信じ、早くティーン教会を再建するよう努めました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA;WIKIPEDIA]
内装外装写真
ビジュアル映像
Balkón - jižní strana バルコニー南側
Balkón - severní strana バルコニー北側
Horní ochoz 通路
Před věží 尖塔前
Zvonice Týnského Chrámu 鐘楼
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