1949年以来、現在に至るまでNárodní galerie Praha - Palác Kinských国立キンスキー宮殿ギャラリーとして利用されている、旧市街広場北面に威風堂々と聳え立つキンスキー宮殿。
19世紀後半から暫くの間、あのフランツ・カフカも1893年から1901年まで通っていた、ドイツ人ギムナジウム(学校)でした。
また、第二次世界大戦後1948年2月25日に同宮殿のバルコニーで、ゴットワルド元大統領がかの有名な「Právě jsem se vrátil z Hradu...今私は城に帰ってきた、、、」と演説した場所でも有名です。
同宮殿は、1363年建築の「Dům U kamenného zvonu石鐘の家」、13世紀後半に建てられた北側部分、そしてJan Arnošt Golz貴族ヤン・アルノシュト・ゴルツが、1755年から1765年に架け建設した宮殿南側部分で構成されていました。また1755年から1765年の工事時に3棟は内部で繋げられました。
貴族ゴルツが他界した後、1768年にルドルフ・キンスキーが同宮殿を購入します。
更に1830年代後半キンスキー家は最も北側部分を購入し、内部で繋げます。
宮殿南側建設に当たっては、忌まわしい言い伝えが残っています。
『宮殿前の絞首刑 』
キンスキーは、他の建物より少しだけ前に突き出した宮殿を建設したいと願いました。そのため、建設許可を得る際に旧市街役所職員3人を買収しました。この事が裁判所に訴えられ、収賄側の3人は宮殿前で絞首刑となりました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
『宮殿に生埋められた赤子 』
旧市街広場に聳え立つキンスキー宮殿を建設するにあたり、大工の棟梁は不吉な事が立て続けに起こり、宮殿が呪われているのではないかと恐れていました。そこで或る老人が棟梁に、昔のお城では罪の無い無垢な子供を悪魔への生贄として、礎に生埋めにしていた事を例に取り、昔のように無垢な子供を生埋めしたら良いとアドバイスしました。
棟梁は、この言葉とおり貧しい家庭から、子供を貰い生埋めにしました。その後、建設の邪魔は入らずスムースに宮殿は完成したそうです。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
1992年に同宮殿は旧市街広場と共にチェコ国宝指定を受けています。
最北部分は高級レストランRestaurant Palác Kinskýchとなっています。
宮殿外観の写真。
宮殿内部のビジュアル映像。
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