2010年3月12日金曜日

シクストの家 dům U Sixtů

dům U Sixtůdůmシクストの家は旧市街広場からツェレトナー通りに入って直ぐのところに有る建物です。
カフカが1889年から1996年に架けて住んでいたことでも知られています。
残念な事に1995年に内装は大改装が施され、内装はカフカが住んでいた面影は有りません。

この建物は1523年以前にゴシック様式の建物として建設されました。1607年から1612年に架けてルネッサンス様式に改装されます。
所有は数々変わりますが、1560年に貴族シクストが購入し以後、建物は彼の名前が冠せられます。
貴族シクストは、1547年のフェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)に対する「Stavovský odboj地主の反乱」スポークスマンとなります。この反乱は皇帝軍により沈静され、貴族シクストは暫くの間プラハ城に幽閉されます。
貴族シクストは釈放された後、執筆に専念します。

貴族シクスト以後も建物の所有者は転々とします。
こんな逸話も残っています。
プラハvsラコブニーク麦酒戦争
16世紀にはラコブニーク村製ビールを振舞う酒場となります。プラハ市のビール製造者は、プラハ市以外で製造されたビールをプラハ市で販売することを快く思いませんでした。
ここにプラハvsラコブニーク麦酒戦争が勃発します。
麦酒戦争は美味しいビールを製造し、ラコブニーク村製ビールを追い出せばプラハ市の勝ち、プラハ市に負けないビールを供給し酒場を死守すればラコブニーク村の勝ちです。
この戦いの行方は、、、
ラコブニーク村が勝利し見事酒場を死守したそうです。
[参考文献;Pražská informační služba]

1995年から1996年にかけ 発掘調査が行われた際、地下から財宝の数々が発見され、有る言い伝えが史実であった事が証明されました。
神の財宝
シクストの家で酒場を営む店主が、カレル橋を渡っていたときに聖ヤン・ポネポムツキー像を見ながらこう思いました。
「色あせした像を綺麗にしたいな。せめて頭を囲んでいる星の一つで良いから金ピカに輝かせてみたいな。」
するとその夜、店主の枕元に何者かが現れ、店主を地下室に連れてゆきました。
そこにはワックスで創られた聖ヤン・ネポムツキー像と財宝が有りました。
店主はこの財宝を使い、カレル橋に建つ聖ヤン・ネポムツキー像を修復しました。
[参考文献;Pražská informační služba]
正に、このワックス製聖ヤン・ポネポムツキー像が発見されたのです。

また同発掘調査では「ティーン前の聖母マリア教会(ティーン教会) kostel Panny Marie před Týnem (Týnský chrám)」で御紹介した逸話『プラハ最初の教会』に出てくる地下の存在も明らかになりました。

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