数秘術
カレル橋の礎石は、公文書上1357年9月7日午前5時31分に据えられた事になっています。正確な時計もなかった時代に、なぜ分単位で時間を記入出来たのでしょうか?しかも、早朝の5時31分に地鎮祭を開くのは大変な事です。
この礎石を据えた日時の数字だけを並べてみましょう。
135797531
右から読んでも、左から読んでも同じです。9を中心に奇数が同じ位置で並んでいます。
これは数秘術という手法で縁起を担いだ結果なのです。
この他にも、カレル橋には当時流行していた数秘術が隠されています。
[参考文献;Pražská informační služba]
消えた晒首
白山の戦いで反乱軍を指揮した貴族47人は裁判にかけられ、その内の貴族27人が神聖ローマ帝国に対する反乱、所謂「ボヘミアの反乱」による罪で、1621年6月21日の午前5時から午前9時の間に処刑されました。
死刑執行人は執行後すぐに12人の生首を籠に納め旧市街橋塔に運び、橋を通行するが良く見えるように、針金で鉄の棒に固定した生首を旧市街側とマラーストラナ側に、回廊からそれぞれ6首づつ晒しました。
貴族ヤーヒム・オンドジェイ・シック、法学博士イージー・ハウエンスフディの頭上には、斬首される直前に彼らの首を切ったヤン・イェセンスキー教授の下がのせられました。
1622年3月11日に、暴風雨が吹き荒れ針金が緩んだ旧市街側の生首二つが地面に落ちましたが、皇帝は生首を元に戻すように命じました。それは、フェルディナンド2世皇帝に逆らう者がどういう目に会わされるかを人々に知らしめる為です。当然、気味悪い生首は通行人を恐怖に陥れていました。
皇帝フェルディナンド2世は自身の結婚を記念し、1622年5月9日に恩赦として貴族ヤーヒム・オンドジェイ・シックの生首のみを家族に引き渡しました。夫人は生首を火葬し、体と共にシク家永代墓地に弔うことができました。そのた11の生首は引き続き晒されたままです。
1631年短期間では有りますが、白山の戦いで敗走した残党がザクセン公国軍と共にプラハ市に押し寄せに占拠した事が有ります。そのさい、11月20日に生首は火葬され何処かに埋葬されました。しかし、何処に埋葬されたかは秘密にさて、今と成っては誰も何処に埋葬されたか解りません。
[参考文献;hrady.cz]
ああ、勘違い!
一昔のプラハ市民は「強固なカレル橋、最も長いレーゲンスブルクのシュタイナーネ橋、そして景観が美しいドレスデンのアウグストゥス橋」とカレル橋を自慢したものです。
では何故カレル橋は堅固な石造橋と成ったのでしょうか?
それはプラハ市の豊かさと関係しています。当時の建築家はカレル橋が堅固な橋となるよう、石と石の間に豊富に卵を混ぜたセメントを使うことにしました。庶民が口にしたくてもなかなか口にする事は出来なかった時代に、ふんだんにしかもセメントの強化剤として使ったのです。どんなに豊かな都市だったことでしょう。
いくら豊かな都市とは言え、プラハ中の卵を掻き集めても足りません。そこで、カレル4世皇帝は国中に、建設に必要な卵を提供するように御触れを出しました。
このお触れを誤解したベレバレー村の人々は、ゆで卵を大量に贈りました。当然セメントの強化剤に使われることはありませんでした。そこで後々の世まで同村の人々は笑いものと成る事になりました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
注)2010年1月18日iDNES記事によると
実際には、セメントに卵を混ぜると強化するどころか弱化します。
2009年の調査では、モルタルが使用されていた事が判明しました。
当時高価だったモルタルをふんだんに使えたのですから、豊かであった事には間違い有りません。
橋に秘められた剣
カレル橋が完成した時。建設者達は橋脚の一つに、その昔、賢者が旅していた時に、賢者が伴っていた、御主人の命令を忠実に聞く剣を橋に隠しました。しかし、何処に隠されたかは誰も知りません。
チェコ国家の危機が発生した時、橋から炎が放たれ、この剣が現れ、炎と共にブチェコ建国時代の騎士達が眠るブラニーク山頂上に飛び、眠っていた騎士たちの目を覚し、騎士と共にプラハ市を守るために戦い、勝利した騎士たちの為にブルタバ川に向かって3度強風を吹き起こし、強風に煽られ出来た大波に乗り、騎士達はブラニーク山に戻ると信じられています。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
プラハ流の挨拶
聖ヤン・ネポムツキーがカレル橋からブルタバ川に落とされて以後、聖人の怨念か、橋のアーチ部分が少しずつ倒壊して行きます。人々は困り果てますが、誰も崩壊を止めることが出来ませんでした。
ある時、橋が完成した暁に、完成後の橋を最初に渡る魂と引換えに、悪魔の協力を取り付けた野心的な若い建築家が、橋の補修工事を引き受けました。悪魔の協力もあり、補修工事は直ぐに完成しました。
建築家は、悪魔を嵌める為に、最初に鶏を渡すことにしました。渡り初め当日、建築家の企みを察知した悪魔は、大工に化けマラーストラナに住む建築家の奥さんを渡り初めに招きました。
何も知らない奥さんは、渡り初めに間に合わせるために、マラーストラナ側からカレル橋を渡りました。奥さんは身籠っておりました。そうです。カレル橋を最初に渡った魂は、奥さんのお腹に居た子供なのです。橋を渡っている途中、奥さんはウナリ声を上げました。ウナリ声が上がると同時に身籠っていた子供をその場で早産しました。子供は悲しいことに翌日天国に召されました。
その後、カレル橋を渡る人々は、目に見えない魂を恐れ、カレル橋の上でクシャミをした人に「Pozdrav Pánbův神に感謝」と挨拶するようになりました。この習慣が一般に広まり、クシャミをした人には誰でも「Pozdrav Pánbův神に感謝」と挨拶するようになりました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
18世紀の娯楽
橋が出来た当初、十字架以外は橋に飾りは施されていませんでした。橋に飾られている像は18世紀ごろに飾り付けられた物です。
この頃、プラハ近郊の人々は春祭りにプラハ市に赴き、橋の像を数えるのが楽しみでした。そして、どんな像が何処に新たに建ったか。どの像がカッコよく、どの像がカッコ悪いか。などなど、カレル橋に据えられた像の話題をしては楽しんでいました。
この頃、聖ヤン・ネポムツキー像の次に有名なのは、マラーストラナ側に立っている太ったトルコ人像です。丸々と太った格好が滑稽だと人々の笑いを買っていました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
橋の十字架
カレル橋に掲げられている十字架の前は裁判が行われていた時代もあります。そこで、裁判直前に多くの人が祈りを捧げた十字架でもあります。この十字架は、2回川へ人を突き落としたことがあります。
冬王フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)の時代、妃がプラハ城から街を望むと十字架が目に入ると何度も不平を言いふらしていました。ある冬の日、街に出たときに橋を渡る際、十字架上に裸で立っている長髪(キリスト)は見たくないと発言しました。そして、尻に敷かれていた冬王フリードリヒ5世は、妃に十字架を取り払うよう命令され、泣く泣く十字架は取り払われることになりました。この神をも恐れない行為の代償は、後日白山の戦いの日に払う羽目と成りました。正に十字架が有った場所に立っていた妃は、迫り狂うプロテスタント軍を前に、自らの身を守るために川へ飛び降りざるを得なかったのです。白山の戦い後再度十字架は元の場所に掲げられました。
破竹を落とす勢いでプラハに侵攻したスエーデン軍は旧市街からプラハ城に向かうべく侵攻していました。カレル橋に差し掛かったところ、十字架の有る辺りからオーストリー軍の反撃に遭い一進一退の状態となり、遂にスエーデン軍は撤退することになりました。撤退する際、腹いせに十字架を捥ぎ取り旧市街側の川岸に投げ捨てました。
伝説によると、スエーデン軍が十字架の怒りを静める事が出来ないようにと、皇帝軍の兵士が川岸に有った十字架を元に戻せないように砕いたそうです。お陰で十字架の怒り静められないスエーデン軍は、十字架が捨てられた川岸から先に進むことは出来ず、川に落ちる事しか出来なかったそうです。そして、十字架を砕いた皇帝軍兵士は仕官に登用されたとのこと。その後、金属製の十字架が掲げられました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
ブルンツビーク伝説
カレル橋カンパ島側橋脚に剣を右手に、旧市街のマークをあしらった盾を左手に持ち、足元に従えた、鎧姿のブルンツビーク像ではないかと云われる像が建っています。この像は、騎士ロランド、オタカル2世像、カレル4世ではないかとも云われています。しかし、プラハ市民はブルンツビーク像だと信じています。
それは、ブルンツリークが無敵の剣を持っていると云う伝説と関連します。この伝説と、橋を建設した棟梁がチェコ民族の栄華を願い、橋に隠した剣伝説が重なったからです。
“頭は全て落とせ”と彼が剣に向かって叫ぶと、敵は無敵の剣によって全て頭を跳ねられると云う言い伝えがあります。また彼は、従順な犬のように飼いならしたライオンを従え外国に凱旋したと言われています。或る戦いの時、このライオンは敵兵と共に海に落ちましたが、ライオンだけが海から帰ってきました。勇猛なライオンは勇者の証しとして長い鬣以外には毛が生えていなかったそうです。
プラハに凱旋帰国したブルンツビークは勇者の剣をカレル橋に納めました。この剣は、チェコが外敵に襲われ危機的状況を迎えたときに、突如橋脚から現れ、勇者の手元に向かいます。勇者が「敵の首を全て切り落とせ!」と叫ぶと敵兵の首は全て切り落とされ、勇者はチェコ王に指名されます。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
ブルンツビークの剣
ブルンツビークがこの世を去らねばならない時期が近づいたと感じ取ったとき、彼は無敵の剣をカレル橋の現在ブルンツビーク像が有る辺りに隠しました。
聖バーツラフがカレル橋上で敵兵と対面し危機的状況を迎えていた時、聖バーツラフが乗っていた馬が蹄で橋を掘起し、ブルンツビークの剣を掘り当て、聖バーツラフはこの剣を使って敵兵全員の首を切り落とし危機を乗り越えたとされています。
(つまり、チェコが戦争で負けてばかりなのは、既に聖バーツラフがブルンツビークの剣を使っていたからです。)
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
ペルンへの祈り
現在ブルンツビーク像が建っている場所には、古代チェコで信仰が厚かったペルン神像が建っていました。ここでは多くの生贄がペルン神に捧げられていました。
キリスト教を受容れて後、ペルン像は壁で囲まれてしまいました。ペルン神の怨念か、付近ではキリスト教徒が溺れる事件や、洪水が多数発生しました。プラハの漁師や潜水師は恐れおののき、ペルン神に捧げ物を欠かしませんでした。ペルン神は現在に至っても毎年生贄として誰か一人を溺れさせているのです。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
スカート捲り
カレル橋旧市街橋塔には、修道士のような格好をした男が、修道女のスカートを捲っている姿の絵が掲げられています。
この絵は、結婚が許されていない修道士が、同じく結婚が許されていない修道女と結婚したマルチン・ルターの絵だと言う人が居ます。カトリックが優勢だった時代にカトリック側から見ると淫乱なルターを蔑む絵が掲げられるのは無理も有りません。
また、女子修道院を襲っては処女狩りをしていたヤン・ジシカではないかとも言われています。言い伝えによると、ジシカは自分の姉妹が修行していた女子修道院を襲い、自ら姉妹を強姦したそうです。そこで、強姦魔のジシカを蔑む為に描かれ掲げられていると言われています。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
聖人の証し
プラハ市が独自の兵隊を雇っていた時代、カレル橋の丁度真ん中に番兵用ブースがあり、ここで番兵は通行人を警護していました。橋の真ん中にブースが有ったのは、王様がプラハ城から傭兵を監視する為です。
ヤン・ネポムツキーが袋詰めにされてカレル橋から投げ落とされると言う刑を執行する際、皇帝は番兵に刑が確実に執行されるよう監視するよう密かに命令しました。番兵は皇帝に言われた通り刑の執行を監視しました。番兵はネポムツキーが川に落とされ溺れ死ぬと、川から流星のような光が5つ放たれるのを見ました。
皇帝は自ら忌まわしいネポムツキーが聖人であるとの証人を創ってしまったのです。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
髭叔父さん
カレル橋のKřižovnické náměstí十字架広場側橋脚に髭叔父さんの彫刻があります。
その昔、髭叔父さんは、その長い髭が川底に着く長さで、ブルタバ川の深さを測っていました。そして、洪水の予測などをし、未然に洪水の被害を予防していました。云わば、川の番人です。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
あなた以上に貧しいのは金持ちの私?
その昔、カレル橋の守衛所前には乞食が物乞いをしていました。多くの市民は乞食に施しをしていましたが、或る金持ちの御婦人は乞食を見て見ぬ振りをしました。そこで、守衛が乞食に施しをするように促すと、指輪を外し「あなた以上の貧しい乞食に施しをするわ。」と叫び、指輪を川に投げ込みました。
数日後、指輪を食べた魚が捕獲され、彼女の食卓に出てきました。その後、この婦人はプラハ市で一番貧しい乞食となり、悲痛の中天国に召されたそうです。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
聖母マリアの指輪とキリストの王冠
古の昔、プラハ城にはとても若くて魅惑的な王女が住んでいました。王女は夏のある日、カレル橋の下で泳いでいました。すると突然の嵐が襲い、王女は溺れてしまいました。嵐が治まると自慢の髪の毛が川面に漂っていました。すると、天が開けキリストを抱いた聖母マリアが現れ、その白い腕で溺れた王女を抱え、川岸に運びました。
王女を救う間、聖母マリアは指輪を川に落としてしまいました。またキリストは王冠を落としました。どちらもブルタバ川の川底に沈みました。
これらの指輪と王冠は未だ見つかっていません。指輪を見つけた人物は世界の王となり、王冠を見つけた人物は教皇となり精神世界の王となると云われ、チェコ人が名実共に世界を支配すると信じられています。しかし、これ等を手にするのは清い人物で無いとダメだとされています。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
カレル橋の宝
プラハ市近郊に一人の農夫が住んでいました。農夫は痩せたリンゴ畑を持っていました。農夫は清貧で、困った時はヤン・ネポムツキーに取成しの祈りを捧げるのが常でした。
ある夜、夢枕に聖ヤン・ネポムツキーが現れ、カレル橋に行くと宝物に出会うと告げました。農夫は俄かには信じられず、単なる夢で正夢では無いと思いました。しかし、同じ夢を毎夜毎夜見るので、遂にカレル橋に赴く事にしました。
カレル橋を探し回るが、何も見つかないままで、やがて日暮れが近づき、どうしたら良いか途方に暮れました。すると、その姿を不信に思った橋の門番は、農夫に話しかけました。農夫が事情を話すと、門番も毎夜“聖ヤン・ネポムツキーが夢枕に現れ、三本十字架が建つ崖から見える最後部の農家の庭に、果実の下に生える接木がある。この接木の元に宝が眠っている”とお告げに来る話をしました。農夫は、その家は自分の家だと直感しました。何故なら、農夫の家からは三本の十字架が掲げられた崖が見えます。そして畑に面した庭には接木が有ります。
そこで、門番と共に家に戻り、門番が夢で見たと言う接木の元を掘ると、宝箱が現れました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
Prague In Your Pocket - Charles Bridge (Karlův most)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿