「Hladová zeď 飢餓の壁」には、カレル4世が飢餓から国民を救う為に、必要のない壁を意味無く作らせ労働の代償として食事と服を与えたと云う美談が残っています。しかし、実際にはこの壁によりマラー・ストラナ地区は強固に守られており、戦略上重要な要塞を形成していました。
1891年に取り壊されるまで、市電Újezdウーイエズド電停の辺りにÚjezdská bránaウーイエズド門と云う堅固な門が有りました。つまり、「Hladová zeď 飢餓の壁」は貧困者を飢餓から救済する為に必要の無い壁を作ったと云う伝説が有る一方で、実は旧市街を外敵から守る為に必要不可欠な戦略的重要な壁であったのです。
1360年から1362年にかけ建設された、高さ4~4.5㍍の壁です。
何度も強化修復工事が行われています。有名な強化修復工事は1624年にマリア・テレジアの命により行われた工事です。
伝説では歯を表している壁上部のギザギザは砲目です。
ペトシーン飢餓の壁
カレル4世の治世時代、大飢饉やペストがチェコ中を覆っ襲った年があります。
人々は飢えの中で蝿の様に死んでゆきました。
この事にひどく心を打たれたカレル4世は、フラチャニの丘からペトシーンを経由しブルタバ川にまで壁を作る計画を建てました。
皇帝は壁を建設する労働者と共に働き、労働の代償として自らパンを手渡し、労いの声をかけました。まるで家族同様に人々と苦しい時を過ごしたのです。この話を聞きつけた人々は、プラハやその周辺から次々と集まり、遂には1千人くらいの人が壁建設の為に集まりました。
この時に築かれた壁は歯の様な形をしています。これは何か噛む物をもたらすようにとの皇帝の願いが込められています。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
GPS;N 50° 04' 57.00" E 14° 23' 47.76"
「Hladová zeď 飢餓の壁」周辺地図
2010年6月3日木曜日
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