2010年6月29日火曜日

リヒテンシュタイン宮殿 (レデボウルスキー宮殿) Lichtenštejnský palác (Ledebourský palác)

「Lichtenštejnský palác (Ledebourský palác) リヒテンシュタイン宮殿 (レデボウルスキー宮殿)」は現在AMU(Akademie múzických umění v Prazeプラハ音楽アカデミー)が入居している建物です。

1541年の大火で焼け野原として放置されていた場所に、1620年にカール1世 (リヒテンシュタイン公)がプラハで初の本格的バロック様式の宮殿を建設しました。カール1世 (リヒテンシュタイン公)白山の戦い戦後処理時に知事をしていたので27人の処刑を決定した”krvavý místodržitel血塗られた知事”と綽名されていました。その関係か、同宮殿にまつわる幽霊話には事欠きません。
またチェコ人の恨みは未だ健在のようで、1993年には宮殿前歩道に27人の首を模った生首像が創られました。

カール1世 (リヒテンシュタイン公)亡き後、血塗られた宮殿に人々は余り近寄りたがらなかったようです。スエーデン軍がプラハを占拠した際の、スエーデン軍本部は同宮殿に置かれます。
その後1791年まで郵便局として利用されていました。1791年に改装工事を施し現在の姿となります。しかし、暫くの間は展示会会場として利用されるに留まっていたようです。
1848年よりオーストリー軍施設となります。ナチスドイツ占領時には軍本部も於かれ、正しく血塗られた宮殿としての名声を確立します。
1960年までチェコ軍本部が於かれていましたが、その後Vysoká škola politická ÚV KSČ共産党政治大学として利用されます。
ビロード革命直後に改修工事を終え、現在はAMU(Akademie múzických umění v Prazeプラハ音楽アカデミー)が入居しています。


悪魔の舞踏会
血塗られたリヒテンシュタイン宮殿は、嘗て豪華絢爛で毎夜のように舞踏会が催されていました。
貴族や富豪が招待され、それはそれは華やかな舞踏会だったそうです。
ある日マラー・ストラナの水車小屋に住む美人で評判の町娘リドビーナが舞踏会に招待されました。
しかし両親は招待されず娘だけが招待されたのです。
そこで父親は、貴族や富豪が集まる舞踏会に、最もエレガントな服装をし娘と共に出席できるようにと悪魔に願いました。
すると直ぐに、娘と共に舞踏の会招待状を受け取りました。そして、見たことの無いオシャレな衣装やネックレス、指輪、ブレスレット等がふんだんに納められた衣装箱が送られて来ました。
招待された舞踏会には見知らぬ何処かの貴族が迎えにきました。オシャレな衣装を身に包んだ親子が、見知らぬ貴族と宮殿に到着し、共に舞踏会が始まるのを今か今か待ち遠しく待っていました。最初の一曲が流れ、娘が踊りだすと、見知らぬ貴族は突然悪魔の姿に豹変し、娘を地獄に送ると書置きを残しさらって行きました。
その後、悪魔の霊が宮殿にとり付き、毎夜悪魔が現れるようになりました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

美貌の代償
リヒテンシュタイン夫人は、誰もが憧れる見目麗しい評判の貴婦人でした。
ある日彼女が鏡を覗くと、一本の皺が目じりに出来ているのを発見しました。
もう美貌を長く保てない事を悟った夫人は悪魔に永遠の美を願いました。
悪魔は夫人の願いを聞き入れました。
このお陰で、長い間美貌を保ち、美と名声を欲しいままにしていました。
気まぐれな悪魔は、ある日突然願いを聞き入れることを辞めました。
すると途端に婦人は別人の様に年老いたシワシワの姿になりました。
また皺だらけに成った夫人を皮肉るかのように、宮殿中にヒビが発生しました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

住所;Malostranské nám. 13, Praha 1 - Malá Strana
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