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2010年5月26日水曜日

[カレル橋]マラーストラナ橋搭 Malostranské mostecké věže

「Malostranské mostecké věže マラーストラナ橋搭 」は、カレル橋マラーストラナ側に聳え立つ搭です。

低い方は別名”Juditina věž ユディタ搭”と呼ばれます。それは、カレル橋が建設される前に架かっていた”Juditin mostユディタ橋”が架けられる以前に、要塞搭として建てられていたことによります。”Juditin mostユディタ橋”が架けられてからは同橋の橋塔として利用されます。同搭が最初に建てられた年は不明ですが、1249年には文献に登場しています。
1784年まで税関として利用されていました。現在お土産やが並ぶ橋側同搭下の小さな建物は税関窓口です。
古の昔は、旧市街橋搭からカレル橋を渡った人々は、ここで税関申告をし税を支払わなければマラー・ストラナに入れなかった事を想像すると、何か楽しくなるのは私だけでしょうか?
さて、税関としての役目を終えた後、暫くの間持ち主は変遷しますが1893年よりプラハ市所有となります。

高い方は、カレル橋と共に建設開始されますが完成は1464年です。
1874年から1879年に架け改修工事が施され現在の姿となります。

GPS: 50°5'13.92"N, 14°24'25.92"E
「Malostranské mostecké věže マラーストラナ橋搭 」周辺地図

2010年5月25日火曜日

[カレル橋]北側橋脚石造 Sousoší - severní pilíř

北側石造東側から西側に向けて紹介
(旧市街橋塔を背にして右側、旧市街橋搭からマラーストラナに向けて紹介)

北01.Madona a sv. Bernard マドンナと聖ベルナルド(クレルヴォーのベルナルドゥス
除幕;1709年
寄進者;Benedikt Littwerigベネディクト・リトウェリグ(オセクのシトー会修道院長)
現在橋に建って居るのは1979年に製作された複製。
オリジナルはビシェフラッドのGorliceゴルリッツェに移転。

北番外 Bradáč 髭叔父さん
除幕;不明
寄進者;不明
*髭叔父さん伝説に就いては[カレル橋]伝説参照の事。

北02.Madona, sv. Dominik a sv. Tomáš Akvinský マドンナ、聖ドミニコ聖トマス・アクィナス
除幕;1708年
寄進者;旧市街のsv. Jiljí 聖イリー教会(Řád bratří kazatelů ドミニコ会
現在橋に建っているのは1958年から1961年に架けて作成された複製。
オリジナルはLAPIDÁRIUM NÁRODNÍHO MUZEAラピダーリウム国立博物館所蔵。

北03.Kalvárie, sv. Kříž ゴルゴタの丘、聖十字架
除幕;不明
寄進者;不明
十字架はカレル4世時代には既に掲げられていた可能性が高い。
何回も取り替えられており、変遷の歴史は余りハッキリしていない。
現在橋に建っているのは1657年製作。
十字架の両脇に建つ聖母マリアと聖ヨハネ像は1861年製作。

北04.Sv. Anna 聖アンナ (マリアの母)
除幕;1707年
寄進者;ルドルフ(リソフ伯)
現在橋に建っているのは1999年に作成された複製。
オリジナルはビシェフラッドのGorliceゴルリッツェに移転。

北05.Sv. Cyril a Metoděj 聖チリルと聖メトジェイ
除幕;1938年(1928-1938年製作)
寄進者;文部省とチェコスロバキア教育関係者
元々この場所には1709年除幕のイグナチオ・デ・ロヨラ像が有った。1890年の洪水時に川に落ち一部壊れる。同像残骸は現在LAPIDÁRIUM NÁRODNÍHO MUZEAラピダーリウム国立博物館所蔵。
チェコスロバキア建国10周年を記念し建設。

北06.Sv. Jan Křtitel 洗礼者ヨハネ
除幕;1855年
寄進者;Jan Norbert Gemerichヤン・ノルベルト・ゲメリフ
元々この場所には1709年除幕のキリストの洗礼像があった。1848年革命の混乱で一部崩壊。
同像残骸は現在LAPIDÁRIUM NÁRODNÍHO MUZEAラピダーリウム国立博物館所蔵。

北07.Sv. Norbert, Václav a Zikmund 聖ノルベルト、聖バーツラフと聖ジクムンド
除幕;1853年
寄進者;Jeroný J. Zeidlerイェロニー・J・ゼイドレール(ストラホフ修道院々長)
元々この場所には1709年除幕のSv. Norbert聖ノルベルト像が有った。
1757年プロシア軍の砲撃により崩壊。

北08.Sv. Jan Nepomucký 聖ヤン・ネポムツキー(ネポムクのヨハネ
除幕;1683年
寄進者;Matyáš マティアーシュ(Wunschwitz伯)
カレル橋に建つ2番目に古い像、一番古い像は「北03.Kalvárie, sv. Kříž ゴルゴタの丘、聖十字架」。
銅像は聖人殉教300年を記念して建造されたが、聖人殉教年は1393年であり、10年のズレがある。原因は、恐らく寄進者の計算間違い。
石膏試作品1681年はNG Praha 国立ギャラリーに納められている。
また製作に当たり使用された木製モデルは新市街の「kostel sv. Jana Nepomuckého na Skalce スカルカの聖ヤン・ネポムツキー教会」に納められている。
台座右レリーフはネモムツキーが川に突き落とされる様をイメージしてる。
レリーフのポムツキーを撫でると秘密の願いが叶うとの迷信が有る。
台座下左レリーフはバーツラフ4世がネポムツキーから聞き出そうとした”ゾフィー・フォン・バイエルン (神聖ローマ皇后)”告解をイメージしている。

北09.Sv. Antonín Paduánský 聖パドヴァのアントニオ
除幕;1707年
寄進者;Kryštof Mořic Witthauerクリシュトフ・モジツウィッタウル(城伯)

北10.Sv. Juda Tadeáš 聖タダイ
除幕;1708年
寄進者;František Sezima フランティシェク・セジマ(騎士)

北11.Sv. Augustin 聖アウグスティヌス
除幕;1708年
寄進者;konvent řádu augustiniánů u sv. Tomáše マラー・ストラナの聖アウグスチノ修道会聖トマーシュ教会
現在橋に建っているのは1971年に作成された複製。
オリジナルはビシェフラッドのGorliceゴルリッツェに移転。

北12.Sv. Kajetán 聖カエターン
除幕;1709年
寄進者;フランティシェック(リサウ伯)がカエタン修道会に捧げる。

北13.Sv. Filip Benicius 聖フィリップ・ベニシウス
除幕;1714年
寄進者;řádu servitů セルビト修道院
現在橋に建っているのは2000年にLichtenštejnリヒテンシュテイン夫妻の寄付により作成された複製。

北14.Sv. Vít 聖ビート(ルカニアのヴィトゥス
除幕;1714年
寄進者;Matěj Vojtěch z Löwenmachtu マテェイ・ボイテェフ・ロウエンマッフ (ビシェフラッド教区長)

北15.Sv. Kosma a Damián se Salvátorem 聖コスモと聖ダミアンとキリスト
除幕;1709年
寄進者;lékařské fakulty 医学部(現カレル大学医学部)
聖コスモと聖ダミアンは医者の守護聖人。

2010年5月24日月曜日

[カレル橋]南側橋脚石造 Sousoší - jižní pilíř

南側石造東側から西側に向けて紹介
(旧市街橋塔を背にして左側、旧市街橋搭からマラーストラナに向けて紹介)

南01.Sv. Ivo 聖イボ
除幕;1711年
寄進者;法学部
現在橋に建っているのは1908年に作成された複製。
オリジナルはLAPIDÁRIUM NÁRODNÍHO MUZEAラピダーリウム国立博物館所蔵。
Sv. Ivo聖イボは、“法学者”と”子供を抱えた未亡人”の守護聖人。

南02.Sv. Barbora, Sv. Markéta Antiochijská, sv. Alžběta Durynská
聖バルボラ、聖アンティオキアのマルガリタ聖エリザベート・テューリンゲン
除幕;1707年
寄進者;Jan Václav Obyteckýヤン・バーツラフ・オビテツキー(枢密院委員)
現在橋に建っているのは複製。

南03.Pieta (Oplakávání Krista) ピエタ
除幕;二代目1859年
寄進者;初代、プラハ市旧市街
     二代目、プラハ市民寄付金
この場所には15世紀頃より「Boží muka磔刑のキリスト」像が有ったが、1695年より初代ピエタ像に建替えられる。初代ピエタ像は1848年革命時に砲撃され倒壊。現在橋に建っているのは1859年に製作された2代目ピエタ像。初代残骸はnemocnice Pod Petřínemペトシーン病院中庭に移設。

南04.Sv. Josef s Ježíšem ナザレのヨセフと幼きイエス
除幕;初代1706年
    二代目1854年
寄進者;二代目、Josef Bergmannヨセフ・ベルグマン(プラハ市豪商)
1706年初代ヨセフ像除幕。1848年革命時にピエタ像と共に砲撃され倒壊。現在橋に建っているのは二代目。初代残骸はLAPIDÁRIUM NÁRODNÍHO MUZEAラピダーリウム国立博物館所蔵。

南05.Sv. František Xaverský 聖フランシスコ・ザビエル
除幕;1711年
寄進者;クレメンティウムのイエズス会
現在橋に建っているのは1913年に製作された複製。オリジナルはLAPIDÁRIUM NÁRODNÍHO MUZEAラピダーリウム国立博物館所蔵。
ザビエルを支える像は、チェコ語文献では「中国人、タタール人ムーア人、インド人」と成っている。故か日本語文献では、ザビエル像を支える像の中に「中国人の様な日本人」が居ると紹介している文献が多数散見される。しかし、今のところチェコ語ではザビエル像を支える像に「日本人」がいると書いている文献を発見できず。
恐らく、ラテン語で「SANCTO FRANCISCO XAVERIO S. O. INDIARVM ET JAPONIAE APOSTOLO THEOSOPHO GEMINAE FACVLTATES THEOLOGICA ET ET PHILOSOPHICA VNIVERSITATIS PRAGENS POSVERE MDCCXI.大学の神学部と哲学部は、イエズス会、インド、日本に神の光を当てた使途聖フランシスコ・ザビエル像を1711年に寄進。」と寄進者説明書きに書いてあるのを、ラテン語が解らない誰かが"JAPONIAE"と云う文字だけを見て勝手に判断したものだと考えられる。

南06.Sv. Kryštof 聖クリストファー
除幕;1857年
寄進者;JUDR Václav Wankaバーツラフ・ワンカ(プラハ市長、法学博士)
この場所には1784年に発生した洪水で番兵が流されるまで番兵が立っていた。
橋を渡る人々が水から守られるようにと願い建てられる。
クリストファーは水上を渡る人々の守護聖人。

南07.Sv. František Borgiáš 聖フランティシェック・ボルギアーシュ
除幕;1710年
寄進者;フランツ・コレット(城伯)

南08.Sv. Ludmila s malým Václavem 聖ルドミーラと幼きバーツラフ
除幕;無し
寄進者;無し
元々この場所には聖バーツラフ像が建っていたが、1784年の洪水で像は流された。
そこで、プラハ城に飾ってあった1720年製作の同像を移転。
現在橋に建って居るのは1999年に製作された複製。
オリジナルはビシェフラッドのGorliceゴルリッツェに移転。

南09.Sv. František Serafinský アッシジの聖フランチェスコ
除幕;初代、1708年
    二代目、1855年
寄進者;二代目、Václav Vojtěch ze Šternberka バーツラフ・ボイチェフ・シュテンブルク
初代像はkostel sv. Josefa na Náměstí Republiky共和国広場聖ヨセフ教会前に移転。
二代目は1853年のフランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)暗殺事件未遂を記念し寄進。

南10.Sv. Vincenc Ferrerský a sv. Prokop 聖ビネツ・フェレルスキーと聖プロコプ
除幕;1712年
寄進者;Romedius Josef František hrabě Thun ロメディウス・ヨセフ・フランティシェック (トゥルン伯)

南番外 Bruncvík ブルンツビーク
除幕;1884年
寄進者;プラハ市民
元々この場所にはRolandローランド像が有ったが、1648年スイス軍により壊される。
オリジナルはLAPIDÁRIUM NÁRODNÍHO MUZEAラピダーリウム国立博物館所蔵。
*ブルンツビーク伝説に就いては[カレル橋]伝説参照の事。

南11.Sv. Mikuláš Tolentinský トレンティンの聖ニコライ
除幕;1708年
寄進者;Řád augustiniánů 聖アウグスチノ修道会
現在橋に建っているのは1969年製作に製作された複製。
オリジナルはビシェフラッドのGorliceゴルリッツェに移転。

南12.Sv. Luitgarda 聖ルティガルド
除幕;1710年
寄進者;Eugen Tyttl エウゲン・ティトゥル(プラシシトー会修道院長)
現在橋に建っているのは1995年に作成された複製。
オリジナルはLAPIDÁRIUM NÁRODNÍHO MUZEAラピダーリウム国立博物館所蔵。

南13.Sv. Vojtěch 聖ボイティエフ(プラハのアダルベルト
除幕;1709年
寄進者;Marek Bernard Joanelli マレック・ベルナルド・ヨアネリイ(旧市街議会議員)
現在橋に建っているのは1973年製作に製作された複製。
オリジナルはビシェフラッドのGorliceゴルリッツェに移転。

南14.Sv. Jan z Mathy, Felix z Valois a Ivan マシの聖ヤン、バロイスのフェリックスとイバン
除幕;1709年
寄進者;řád trinitářů 三位一体会を代表しFrantišek Josefフランティシェック・ヨゼフ(トゥルン伯)

南15.Sv. Václav 聖バーツラフ
除幕;1859年
寄進者;Pavel Alois Klár パベル・アイロス・クラール(クラール盲学校創立者の息子)
クラール盲学校創立25周年を記念して創立者の子息が寄進した石造です。

2010年5月21日金曜日

[カレル橋]旧市街橋搭 Staroměstská mostecká věž

「Staroměstská mostecká věž 旧市街橋搭」には非常に凄惨な歴史が有ります。今でも伝説として言い伝えられている、晒し首の話です。詳しくは「[カレル橋]伝説 Pověsti o kamenném mostě」か「kostel sv. Salvátora 聖サルバトール教会 」のスレッドを御覧ください。
この伝説を知る前までは夜カレル橋を渡るのは平気でしたが、知って後は気持ち悪くて、、、

「Staroměstská mostecká věž 旧市街橋搭」は、カレル橋が建設された1357年に建設されたゴシック建築物です。
1648年にはスウェーデン軍によりプラハ市が一時占拠された時、マラーストラナ側の像や装飾が全て破壊されました。
Křižovnického náměstí十字架広場側に建つ sv. Zikmund聖ジクムンド、sv. Vojtěch聖ボイテェフ、 sv. Vít聖ビート、 Karla IVカレル4世、Václava IVバーツラフ4世像は2006年にレプリカと交換されました。
その際、言い伝えで伝承されていた建設当時のクレーンを再現し交換され、中世の建築技術レベルの高さを証明しました。

Pod věží 搭下
Praha 360 panorama 搭からの眺め360°
Před věží Staroměstské mostecké věže 旧市街橋搭からの眺め-マラー・ストラナ側
Výhled - východní strana 旧市街橋搭からの眺め-東側

GPS;N 50° 05' 11.00" E 14° 24' 49.00"
「Staroměstská mostecká věž 旧市街橋搭」周辺地図

2010年5月20日木曜日

[カレル橋]カレル橋伝説 Pověsti o kamenném mostě

数秘術
カレル橋の礎石は、公文書上1357年9月7日午前5時31分に据えられた事になっています。正確な時計もなかった時代に、なぜ分単位で時間を記入出来たのでしょうか?しかも、早朝の5時31分に地鎮祭を開くのは大変な事です。
この礎石を据えた日時の数字だけを並べてみましょう。
135797531
右から読んでも、左から読んでも同じです。9を中心に奇数が同じ位置で並んでいます。
これは数秘術という手法で縁起を担いだ結果なのです。
この他にも、カレル橋には当時流行していた数秘術が隠されています。
[参考文献;Pražská informační služba]


消えた晒首
白山の戦いで反乱軍を指揮した貴族47人は裁判にかけられ、その内の貴族27人が神聖ローマ帝国に対する反乱、所謂「ボヘミアの反乱」による罪で、1621年6月21日の午前5時から午前9時の間に処刑されました。
死刑執行人は執行後すぐに12人の生首を籠に納め旧市街橋塔に運び、橋を通行するが良く見えるように、針金で鉄の棒に固定した生首を旧市街側とマラーストラナ側に、回廊からそれぞれ6首づつ晒しました。
貴族ヤーヒム・オンドジェイ・シック、法学博士イージー・ハウエンスフディの頭上には、斬首される直前に彼らの首を切ったヤン・イェセンスキー教授の下がのせられました。
1622年3月11日に、暴風雨が吹き荒れ針金が緩んだ旧市街側の生首二つが地面に落ちましたが、皇帝は生首を元に戻すように命じました。それは、フェルディナンド2世皇帝に逆らう者がどういう目に会わされるかを人々に知らしめる為です。当然、気味悪い生首は通行人を恐怖に陥れていました。
皇帝フェルディナンド2世は自身の結婚を記念し、1622年5月9日に恩赦として貴族ヤーヒム・オンドジェイ・シックの生首のみを家族に引き渡しました。夫人は生首を火葬し、体と共にシク家永代墓地に弔うことができました。そのた11の生首は引き続き晒されたままです。
1631年短期間では有りますが、白山の戦いで敗走した残党がザクセン公国軍と共にプラハ市に押し寄せに占拠した事が有ります。そのさい、11月20日に生首は火葬され何処かに埋葬されました。しかし、何処に埋葬されたかは秘密にさて、今と成っては誰も何処に埋葬されたか解りません。
[参考文献;hrady.cz]

ああ、勘違い!
一昔のプラハ市民は「強固なカレル橋、最も長いレーゲンスブルクのシュタイナーネ橋、そして景観が美しいドレスデンのアウグストゥス橋」とカレル橋を自慢したものです。
では何故カレル橋は堅固な石造橋と成ったのでしょうか?
それはプラハ市の豊かさと関係しています。当時の建築家はカレル橋が堅固な橋となるよう、石と石の間に豊富に卵を混ぜたセメントを使うことにしました。庶民が口にしたくてもなかなか口にする事は出来なかった時代に、ふんだんにしかもセメントの強化剤として使ったのです。どんなに豊かな都市だったことでしょう。
いくら豊かな都市とは言え、プラハ中の卵を掻き集めても足りません。そこで、カレル4世皇帝は国中に、建設に必要な卵を提供するように御触れを出しました。
このお触れを誤解したベレバレー村の人々は、ゆで卵を大量に贈りました。当然セメントの強化剤に使われることはありませんでした。そこで後々の世まで同村の人々は笑いものと成る事になりました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]
注)2010年1月18日iDNES記事によると
実際には、セメントに卵を混ぜると強化するどころか弱化します。
2009年の調査では、モルタルが使用されていた事が判明しました。
当時高価だったモルタルをふんだんに使えたのですから、豊かであった事には間違い有りません。

橋に秘められた剣
カレル橋が完成した時。建設者達は橋脚の一つに、その昔、賢者が旅していた時に、賢者が伴っていた、御主人の命令を忠実に聞く剣を橋に隠しました。しかし、何処に隠されたかは誰も知りません。
チェコ国家の危機が発生した時、橋から炎が放たれ、この剣が現れ、炎と共にブチェコ建国時代の騎士達が眠るブラニーク山頂上に飛び、眠っていた騎士たちの目を覚し、騎士と共にプラハ市を守るために戦い、勝利した騎士たちの為にブルタバ川に向かって3度強風を吹き起こし、強風に煽られ出来た大波に乗り、騎士達はブラニーク山に戻ると信じられています。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

プラハ流の挨拶
聖ヤン・ネポムツキーがカレル橋からブルタバ川に落とされて以後、聖人の怨念か、橋のアーチ部分が少しずつ倒壊して行きます。人々は困り果てますが、誰も崩壊を止めることが出来ませんでした。
ある時、橋が完成した暁に、完成後の橋を最初に渡る魂と引換えに、悪魔の協力を取り付けた野心的な若い建築家が、橋の補修工事を引き受けました。悪魔の協力もあり、補修工事は直ぐに完成しました。
建築家は、悪魔を嵌める為に、最初に鶏を渡すことにしました。渡り初め当日、建築家の企みを察知した悪魔は、大工に化けマラーストラナに住む建築家の奥さんを渡り初めに招きました。
何も知らない奥さんは、渡り初めに間に合わせるために、マラーストラナ側からカレル橋を渡りました。奥さんは身籠っておりました。そうです。カレル橋を最初に渡った魂は、奥さんのお腹に居た子供なのです。橋を渡っている途中、奥さんはウナリ声を上げました。ウナリ声が上がると同時に身籠っていた子供をその場で早産しました。子供は悲しいことに翌日天国に召されました。
その後、カレル橋を渡る人々は、目に見えない魂を恐れ、カレル橋の上でクシャミをした人に「Pozdrav Pánbův神に感謝」と挨拶するようになりました。この習慣が一般に広まり、クシャミをした人には誰でも「Pozdrav Pánbův神に感謝」と挨拶するようになりました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

18世紀の娯楽
橋が出来た当初、十字架以外は橋に飾りは施されていませんでした。橋に飾られている像は18世紀ごろに飾り付けられた物です。
この頃、プラハ近郊の人々は春祭りにプラハ市に赴き、橋の像を数えるのが楽しみでした。そして、どんな像が何処に新たに建ったか。どの像がカッコよく、どの像がカッコ悪いか。などなど、カレル橋に据えられた像の話題をしては楽しんでいました。
この頃、聖ヤン・ネポムツキー像の次に有名なのは、マラーストラナ側に立っている太ったトルコ人像です。丸々と太った格好が滑稽だと人々の笑いを買っていました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

橋の十字架
カレル橋に掲げられている十字架の前は裁判が行われていた時代もあります。そこで、裁判直前に多くの人が祈りを捧げた十字架でもあります。この十字架は、2回川へ人を突き落としたことがあります。
冬王フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)の時代、妃がプラハ城から街を望むと十字架が目に入ると何度も不平を言いふらしていました。ある冬の日、街に出たときに橋を渡る際、十字架上に裸で立っている長髪(キリスト)は見たくないと発言しました。そして、尻に敷かれていた冬王フリードリヒ5世は、妃に十字架を取り払うよう命令され、泣く泣く十字架は取り払われることになりました。この神をも恐れない行為の代償は、後日白山の戦いの日に払う羽目と成りました。正に十字架が有った場所に立っていた妃は、迫り狂うプロテスタント軍を前に、自らの身を守るために川へ飛び降りざるを得なかったのです。白山の戦い後再度十字架は元の場所に掲げられました。
破竹を落とす勢いでプラハに侵攻したスエーデン軍は旧市街からプラハ城に向かうべく侵攻していました。カレル橋に差し掛かったところ、十字架の有る辺りからオーストリー軍の反撃に遭い一進一退の状態となり、遂にスエーデン軍は撤退することになりました。撤退する際、腹いせに十字架を捥ぎ取り旧市街側の川岸に投げ捨てました。
伝説によると、スエーデン軍が十字架の怒りを静める事が出来ないようにと、皇帝軍の兵士が川岸に有った十字架を元に戻せないように砕いたそうです。お陰で十字架の怒り静められないスエーデン軍は、十字架が捨てられた川岸から先に進むことは出来ず、川に落ちる事しか出来なかったそうです。そして、十字架を砕いた皇帝軍兵士は仕官に登用されたとのこと。その後、金属製の十字架が掲げられました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

ブルンツビーク伝説
カレル橋カンパ島側橋脚に剣を右手に、旧市街のマークをあしらった盾を左手に持ち、足元に従えた、鎧姿のブルンツビーク像ではないかと云われる像が建っています。この像は、騎士ロランド、オタカル2世像、カレル4世ではないかとも云われています。しかし、プラハ市民はブルンツビーク像だと信じています。
それは、ブルンツリークが無敵の剣を持っていると云う伝説と関連します。この伝説と、橋を建設した棟梁がチェコ民族の栄華を願い、橋に隠した剣伝説が重なったからです。
“頭は全て落とせ”と彼が剣に向かって叫ぶと、敵は無敵の剣によって全て頭を跳ねられると云う言い伝えがあります。また彼は、従順な犬のように飼いならしたライオンを従え外国に凱旋したと言われています。或る戦いの時、このライオンは敵兵と共に海に落ちましたが、ライオンだけが海から帰ってきました。勇猛なライオンは勇者の証しとして長い鬣以外には毛が生えていなかったそうです。
プラハに凱旋帰国したブルンツビークは勇者の剣をカレル橋に納めました。この剣は、チェコが外敵に襲われ危機的状況を迎えたときに、突如橋脚から現れ、勇者の手元に向かいます。勇者が「敵の首を全て切り落とせ!」と叫ぶと敵兵の首は全て切り落とされ、勇者はチェコ王に指名されます。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

ブルンツビークの剣
ブルンツビークがこの世を去らねばならない時期が近づいたと感じ取ったとき、彼は無敵の剣をカレル橋の現在ブルンツビーク像が有る辺りに隠しました。
聖バーツラフがカレル橋上で敵兵と対面し危機的状況を迎えていた時、聖バーツラフが乗っていた馬が蹄で橋を掘起し、ブルンツビークの剣を掘り当て、聖バーツラフはこの剣を使って敵兵全員の首を切り落とし危機を乗り越えたとされています。
(つまり、チェコが戦争で負けてばかりなのは、既に聖バーツラフがブルンツビークの剣を使っていたからです。)
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

ペルンへの祈り
現在ブルンツビーク像が建っている場所には、古代チェコで信仰が厚かったペルン神像が建っていました。ここでは多くの生贄がペルン神に捧げられていました。
キリスト教を受容れて後、ペルン像は壁で囲まれてしまいました。ペルン神の怨念か、付近ではキリスト教徒が溺れる事件や、洪水が多数発生しました。プラハの漁師や潜水師は恐れおののき、ペルン神に捧げ物を欠かしませんでした。ペルン神は現在に至っても毎年生贄として誰か一人を溺れさせているのです。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

スカート捲り
カレル橋旧市街橋塔には、修道士のような格好をした男が、修道女のスカートを捲っている姿の絵が掲げられています。
この絵は、結婚が許されていない修道士が、同じく結婚が許されていない修道女と結婚したマルチン・ルターの絵だと言う人が居ます。カトリックが優勢だった時代にカトリック側から見ると淫乱なルターを蔑む絵が掲げられるのは無理も有りません。
また、女子修道院を襲っては処女狩りをしていたヤン・ジシカではないかとも言われています。言い伝えによると、ジシカは自分の姉妹が修行していた女子修道院を襲い、自ら姉妹を強姦したそうです。そこで、強姦魔のジシカを蔑む為に描かれ掲げられていると言われています。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

聖人の証し
プラハ市が独自の兵隊を雇っていた時代、カレル橋の丁度真ん中に番兵用ブースがあり、ここで番兵は通行人を警護していました。橋の真ん中にブースが有ったのは、王様がプラハ城から傭兵を監視する為です。
ヤン・ネポムツキーが袋詰めにされてカレル橋から投げ落とされると言う刑を執行する際、皇帝は番兵に刑が確実に執行されるよう監視するよう密かに命令しました。番兵は皇帝に言われた通り刑の執行を監視しました。番兵はネポムツキーが川に落とされ溺れ死ぬと、川から流星のような光が5つ放たれるのを見ました。
皇帝は自ら忌まわしいネポムツキーが聖人であるとの証人を創ってしまったのです。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

髭叔父さん
カレル橋のKřižovnické náměstí十字架広場側橋脚に髭叔父さんの彫刻があります。
その昔、髭叔父さんは、その長い髭が川底に着く長さで、ブルタバ川の深さを測っていました。そして、洪水の予測などをし、未然に洪水の被害を予防していました。云わば、川の番人です。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

あなた以上に貧しいのは金持ちの私?
その昔、カレル橋の守衛所前には乞食が物乞いをしていました。多くの市民は乞食に施しをしていましたが、或る金持ちの御婦人は乞食を見て見ぬ振りをしました。そこで、守衛が乞食に施しをするように促すと、指輪を外し「あなた以上の貧しい乞食に施しをするわ。」と叫び、指輪を川に投げ込みました。
数日後、指輪を食べた魚が捕獲され、彼女の食卓に出てきました。その後、この婦人はプラハ市で一番貧しい乞食となり、悲痛の中天国に召されたそうです。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

聖母マリアの指輪とキリストの王冠
古の昔、プラハ城にはとても若くて魅惑的な王女が住んでいました。王女は夏のある日、カレル橋の下で泳いでいました。すると突然の嵐が襲い、王女は溺れてしまいました。嵐が治まると自慢の髪の毛が川面に漂っていました。すると、天が開けキリストを抱いた聖母マリアが現れ、その白い腕で溺れた王女を抱え、川岸に運びました。
王女を救う間、聖母マリアは指輪を川に落としてしまいました。またキリストは王冠を落としました。どちらもブルタバ川の川底に沈みました。
これらの指輪と王冠は未だ見つかっていません。指輪を見つけた人物は世界の王となり、王冠を見つけた人物は教皇となり精神世界の王となると云われ、チェコ人が名実共に世界を支配すると信じられています。しかし、これ等を手にするのは清い人物で無いとダメだとされています。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

カレル橋の宝
プラハ市近郊に一人の農夫が住んでいました。農夫は痩せたリンゴ畑を持っていました。農夫は清貧で、困った時はヤン・ネポムツキーに取成しの祈りを捧げるのが常でした。
ある夜、夢枕に聖ヤン・ネポムツキーが現れ、カレル橋に行くと宝物に出会うと告げました。農夫は俄かには信じられず、単なる夢で正夢では無いと思いました。しかし、同じ夢を毎夜毎夜見るので、遂にカレル橋に赴く事にしました。
カレル橋を探し回るが、何も見つかないままで、やがて日暮れが近づき、どうしたら良いか途方に暮れました。すると、その姿を不信に思った橋の門番は、農夫に話しかけました。農夫が事情を話すと、門番も毎夜“聖ヤン・ネポムツキーが夢枕に現れ、三本十字架が建つ崖から見える最後部の農家の庭に、果実の下に生える接木がある。この接木の元に宝が眠っている”とお告げに来る話をしました。農夫は、その家は自分の家だと直感しました。何故なら、農夫の家からは三本の十字架が掲げられた崖が見えます。そして畑に面した庭には接木が有ります。
そこで、門番と共に家に戻り、門番が夢で見たと言う接木の元を掘ると、宝箱が現れました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

Prague In Your Pocket - Charles Bridge (Karlův most)

2010年5月19日水曜日

カレル4世像 pomník Karla IV

「pomník Karla IV カレル4世像」は1849年にプラハ・カレル大学創立500年を記念し建立された像です。
右手には剣ではなく大学創立許可書を持っています。

聖バーツラフの奇跡
スタラー・ボレスラフにて聖バーツラフが弟ボレスラフから殺害された後、キリスト教徒は密かに聖バーツラフの遺体をプラハ城へ運ぼうとしました。
夜が暮れてヒッソリとスタラー・ボレスラフを出発し、夜明け前には現十字広場まで辿りつきました。
しかし、橋は夜中に吹き荒れた嵐が原因で川が氾濫し橋が倒壊していました。キリスト教徒の間では、川向うに渡れないのでは中との恐怖が蔓延していました。彼らは聖バーツラフの遺体が川の向こうに渡れるようにと祈りました。すると、祈りが天に通じたのか、突然川から水が引け川底が現れ対岸に渡れることとなりました。
この奇跡を記念して、キリスト教徒は十字広場に聖バーツラフの木製像と絵を御祭りしました。石橋(カレル橋)が架けられた後、石像に建替えられました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

GPS;N 50° 05' 11.10" E 14° 24' 49.50"
「pomník Karla IV カレル4世像」周辺地図

2010年5月18日火曜日

カレル橋博物館 Muzeum Karlova mostu

Muzeum Karlova mostu カレル橋博物館」 は、カレル橋礎石式650年を記念し2007年6月15日にオープンした博物館です。
プラハ市が運営している博物館なので、カレル橋以外にプラハ市の歴史等もこの博物館で見学することが出来ます。

住所;Křižovnické náměstí 3, Praha 1
Muzeum Karlova mostu カレル橋博物館」周辺地図

2010年5月17日月曜日

聖アッシジのフランシスコ教会 Kostel svatého Františka z Assisi

「Kostel svatého Františka z Assisi  聖アッシジのフランシスコ教会」はカレル橋を見守るかのように聳え立つ教会です。
1378年に消失して以来荒れるに任されていた、Rytířský řád křižovníků s červenou hvězdou赤十字星騎士会が1252年に建設したkostel sv. Ducha聖霊教会跡地に1679年から1685年に架け建てられた教会です。

磔刑した彫刻家
赤十字星騎士会修道院の階段踊り場に、リアルな姿をしている磔刑上のキリスト像が飾られています。この十字架上のキリストは正に死に行こうとしている顔をしています。
この十字架像を彫った彫刻家は、立派な像を作成し名声を得ようと考えました。
リアルな像を作るために、十字架に縛りつけた人をモデルにしました。
彫刻がほぼ出来上がった所で、死に行く顔をリアルに造る為にモデルを殺しました。
当然彫刻家は名声を得るどころか、人を殺めた罪で死罪を言い渡されました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

住所;Křižovnické nám. 3, Praha 1 - Staré Město
「Kostel svatého Františka z Assisi  聖アッシジのフランシスコ教会」周辺地図