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2010年5月5日水曜日

フランツ・カフカ像 pomník Franze Kafky

「pomník Franze Kafky フランツ・カフカ像 」はカフカ生誕120年を記念し、カフカ協会が建立しました。2003年12月4日に除幕式を行っています。
カフカ像が建っている場所は、”kostel sv. Ducha聖霊教会”と”Španělská synagogaスペイン・シナゴーグ”の間でユダヤ教とキリスト教の融合、ヨセフ地区と他地区の境界と言う場所でユダヤ人とその他のプラハ市民との融合を表す場所です。
実際、登記簿上もカフカ像は左足がヨセフ地区、右足が普通の旧市街地区に建っています。
正にユダヤ地区に生まれドイツ系プラハ市民として生涯を過ごしてきたカフカならではの場所です。

Prague Travel: Mysterious Franz Kafka Statue in front of Spanish Synagogue


GPS;N 50° 05' 24.56" E 14° 25' 14.44"
「pomník Franze Kafky フランツ・カフカ像 」周辺地図

2010年5月4日火曜日

スペイン・シナゴーグ Španělská synagoga

「Španělská synagoga スペイン・シナゴーグ」は老朽化していた”Stará škola旧学校”と呼ばるシナゴーグを取り壊して1867年から1868年に架けて建設されました。
”Stará škola旧学校”は11世紀と12世紀の節目頃に建設された、プラハでは最も古いシナゴーグだといわれていました。

スペインのアルハンブラ宮殿を真似た内装に因み「Španělská synagoga スペイン・シナゴーグ」と名付けられます。また、この事によりスペインから訪れる観光客のお目当てともなっています。

1941年までシナゴーグとして利用されていました。1955年にŽidovský muzeumユダヤ博物館管理下に置かれます。1958年から1959年に架け修復工事を施されます。1960年よりユダヤ人伝統の織物が展示公開されますが、1979年に建物は事故により閉鎖されます。1995年から1998年に架け再度修復工事が施され、再度博物館として利用されています。

Prague Travel: The Spanish Synagogue in the Jewish Quarter


住所;Dušní 12, Praha 1 - Staré Město
「Španělská synagoga スペイン・シナゴーグ」周辺地図

2010年5月3日月曜日

マイセル・シナゴーグ Maiselova synagoga

「Maiselova synagoga マイセル・シナゴーグ」はルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)からユダヤ人地区に賜った再開発費用を流用して、ユダヤ人有力者Maiselマイセルが自己の私的祈りの場として1590年から1592年に架けて建立したシナゴーグです。

建立当初は20もの柱で支える絢爛なシナゴーグだったそうですが、1689年に火災に遭い全焼します。再建されたものの柱は14と小規模なシナゴーグに様変わりします。19世紀と20世紀の変わり目に改装工事を行い現在の姿となります。
第二次世界大戦中に、ナチスがチェコ中のシナゴーグ所有していた価値有る約6000点もの芸術品を同シナゴーグに集めます。ナチスは同シナゴーグに反ユダヤ博物館を建設するつもりだったそうです。皮肉にも、第二次世界大戦後ナチスが集めた芸術品と共に同シナゴーグはStátní židovský muzeum国立ユダヤ博物館に接収され、ユダヤ人の豊かな芸術を披露する博物館となります。

住所;Maiselova 8 a 10, Praha 1 - Staré Město/Josefov
「Maiselova synagoga マイセル・シナゴーグ」周辺地図

2010年4月30日金曜日

高等シナゴーグ Vysoká synagoga

「Vysoká synagoga 高等シナゴーグ」は別名”Radniční synagoga役所シナゴーグ”と云います。それは同シナゴーグが「Židovská radnice ユダヤ人役所」の付帯施設として建設された事に由来します。
1577年にユダヤ人地区有力者Maiselマイセル家が「Židovská radnice ユダヤ人役所」と共にシナゴーグを寄進します。19世紀に今日の姿となります。
1941年秋までシナゴーグとして利用されていましたが、その後は資材置き場として利用されていました。第二次世界大戦後一時シナゴーグとしての息を吹き返しますが、1950年以後Státní židovské muzeum国立ユダヤ博物館として接収されます。
1994年から1996年に架けて大改修され1997年より再度シナゴーグとしての息を吹き返し現在に至っています。また、現在はユダヤ教やミドラーシュを学ぶ学びやとしても活躍しています。

住所;Červená 2, Praha 1 - Staré Město/Josefov
「Vysoká synagoga 高等シナゴーグ」周辺地図

2010年4月29日木曜日

ユダヤ人役所 Židovská radnice

「Židovská radnice ユダヤ人役所」は1577年にユダヤ人地区有力者Maiselマイセル家により寄進されたユダヤ人地区を司る役所です。同役所はユダヤ人にとって大切な”祈りの場所””学びの場所””裁判の場所””調停の場所”etc.として重要な役目を果たしていました。
1748年にゲットー制度が廃止されユダヤ人地区がプラハ市行政区に入った事から、他のプラハ地区と同等の地区役所となります。
また、ゲットー地区は1850年にゲットー廃止を決定した時のヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)に因みヨセフ地区と名付けられ、プラハ市で5番目の行政区に昇格します。

1893年に発令された衛生法により、インフラ整備が遅れていたヨセフ地区は大きな変貌を遂げる事になります。その際も、シナゴーグが破壊されないように見守りました。これは、ユダヤ教会であるシナゴーグがキリスト教会と同等の位置に有る事を意味します。
但し、当時の区画整備は教会以外の建物は行政の思いのままですので、上下水管配管工事、道路拡張の為、インフラ整備が一番遅れている同地区の殆どの家が取り壊されました。

ユダヤ人を差別して、ユダヤ人から土地を奪う為に行った区画整備だと説明しているガイドさんが結構いらっしゃる様なので、誤解の内容説明いたします。
”Pražská asanaceプラハ衛星”と云う一大行事で、ゲットーだけが対象ではなく、当時のプラハ市(現在の旧市街地区、新市街地区)全てが対象で、プラハ市の衛生状態を良くする為に、主に上下水道整備、非衛生集合住宅の立替が行われました。インフラ整備が遅れていたゲットーが一番恩恵を受けたとも云えます。

ユダヤ人地区と3人の皇帝
ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)により開放されたユダヤ人地区は、フランツ・ヨーゼフ1世時代の1893年に発令された衛生法によりユダヤ人地区全体が大きな恩恵を受けました。
これ以前にも、皇帝から資金を得て地区全体が恩恵を受けた歴史があります。
1567年にゲットーは大火に遭いました。この時のルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)は、皇族財政を託していたプラハ・ゲットーの混乱を恐れ、ユダヤ人有力者Maiselマイセルにゲットー地区再建の為にお金を提供いました。この時に受けた資金でMaislová synagogaマイセル・シナゴーグ、Maisloá radniceマイセル役所、Vysoká synagoga高等シナゴーグを再建し地区発展に大きく寄与しました。
因みに、”Maisloá radniceマイセル役所”こそ現「Židovská radnice ユダヤ人役所」です。
[参考文献;Pražská informační služba]

住所;Maiselova 18, Praha 1 - Staré Město/Josefov
「Židovská radnice ユダヤ人役所」周辺地図

2010年4月28日水曜日

新旧シナゴーグ Staronová synagoga

「Staronová synagoga 新旧シナゴーグ」は1942年から1945年と云う特別な時期を除き、13世紀後半から現在に至るまで現役で活躍している、中欧で最も古く価値の有るシナゴーグとして有名です。1995年に国宝指定を受けてます。

13世紀後半には現在のゴシック様式建築物がたてられました。
1998年11月から1999年3月に架けて行われた発掘調査の際、11世紀ごろの物と見られる遺物が発掘されており、11世紀ごろにはユダヤ人がこの地に住着きシナゴーグを建設していた可能性が有ります。

”Staronová新旧”と言う名前は、恐らく元々は”Nová synagoga新シナゴーグ”と言う名前だったのが、時代が経つに連れて古い部類のシナゴーグとなり、”Stará古い””Nová synagoga新シナゴーグ”つまり「Staronová synagoga 新旧シナゴーグ」と呼ばれるようになったのではないかと考えられています。

第二のエルサレム神殿
伝説によると、旧市街ユダヤ人の先祖は、第二のエルサレムを建設せよとの神命に従い新旧シナゴーグを建設しました。救世主が現れたときに再度エルサレムに神殿を建設する事が出来るようにと、西暦70年にローマ帝国がエルサレム神殿を破壊したときに出た煉瓦を天使がプラハまで運び、美しい神殿が建設されたと言われています。
[参考文献;Pražská informační služba]

住所;Červená 2, Praha 1 - Staré Město/Josefov
「Staronová synagoga 新旧シナゴーグ」周辺地図

2010年4月27日火曜日

クラウス・シナゴーグ Klausová synagoga

「Klausová synagoga クラウス・シナゴーグ」は旧ユダヤ人墓地に隣接しています。
Klaus クラウスとはドイツ語で小さな建物と言う意味です。
この事からも推測出来るように元々は”シナゴーグ””学校””ヘブラー・カッディーシャー(旧ユダヤ人墓地施設)”と、それぞれ小さな建物が建っていたそうです。
(文献によっては”シナゴーグ””学校””ミクワー”と成っており、小さな3つの建物は間違いないようですが、その3つ目の建物が”ヘブラー・カッディーシャー(旧ユダヤ人墓地施設)”で有ったか””ミクワー”で有ったのか定かでは無いようです。)

1689年にユダヤ人街を襲った大火後、1694年に現在の初期バロック様式建築物のシナゴーグが建てられます。1822年から1823年の大改修工事で現在の姿となります。
現在はユダヤ人の伝統文化を紹介するユダヤ人博物館として利用されています。

住所;U Starého hřbitova 1, Praha 1 - Staré Město/Josefov
「Klausová synagoga クラウス・シナゴーグ」周辺地図

2010年4月26日月曜日

旧ユダヤ人墓地 Starý židovský hřbitov

「Starý židovský hřbitov 旧ユダヤ人墓地 」見学は日本人の感覚からすると考えられないかもしれません。しかし、日本でも有名人の墓に墓参する習慣が御座います。またユダヤ人の歴史を知る上でも、周りのシナゴーグと同様に重要な見学コースの一つだと考えられます。

この場所に墓地が現れた正確な年代は現在の所不明ですが、恐らく1439年だろうと云われています。1786年までこの地にユダヤ人は埋葬されていました。
その後はジシコフ地区テレビ塔付近に有るユダヤ人墓地に埋葬されることになります。1891年からはユダヤ人以外の人々も永眠しているOlšanský hřbitovオラシャンス墓地に葬られることになります。

死刑執行人
旧ユダヤ人墓地に隣接する現在のUměleckoprůmyslový muzeum工芸博物館辺りに死刑執行人の住む家がありました。旧ユダヤ人墓地は1768年に敷地を広くする為に死刑執行人の家を購入しました。
しかし、時の政府が1787年に旧ユダヤ人墓地への新たな埋葬を禁止した為、死刑執行人の家購入は無駄となり、荒れ果てるままに任せて取り残されました。
しかし、19世紀後半衛生上の理由でユダヤ人街を再開発する事に成ったとき、旧ユダヤ人墓地の土地を市に提供しなければならない事態に陥った時に、旧ユダヤ人墓地敷地の一部である死刑執行人の家が提供されました。
もし旧ユダヤ人墓地を守る為、新たに近隣の土地を購入していればどうなっていたことでしょう、ユダヤの神は後の世の事まで考えていたのです。
[参考文献;hrady.cz]

住所;U Starého hřbitova 3, Praha 1 - Staré Město/Josefov
「Starý židovský hřbitov 旧ユダヤ人墓地 」周辺地図

2010年4月23日金曜日

ピンカス・シナゴーグ Pinkasova synagoga

「Pinkasova synagoga ピンカス・シナゴーグ」は第二次世界大戦でホロコーストに遭った全ユダヤ人の名前を壁や柱に手書きで書き記している事で有名です。また、テレジーン強制収容所に収容された子供達の遺物を展示していることでも知られています。

この建物は1535年に個人の私的祈りの場として建設されました。16世紀後半に建設者の孫でラビとなったピンカスに因んで「Pinkasova synagoga ピンカス・シナゴーグ」と呼ばれるようになりました。
その後ミクワーを備えたシナゴーグとなります。現在の姿と成ったのは、1775年の外壁工事後です。

第二次世界大戦後、主が居なくなった同シナゴーグは改装されホロスコープ博物館として利用されることになりました。

住所;Praha 1 - Široká 3, Praha 1,Staré Město/Josefov
「Pinkasova synagoga ピンカス・シナゴーグ」周辺地図