2010年3月1日月曜日

ティーン Týn

kostel Panny Marie před Týnem (Týnský chrám)ティーン前の聖母マリア教会(ティーン教会)」の由来と成ったTýnティーンを御紹介しましょう。
ティーンは別名、「Týnský dvůr ティーンスキー・ドゥブール(ティーン中庭)」「 Ungertウンゲルト」とも呼ばれます。

元々は、旧市街広場へ商売に来た商人が泊まる宿屋が数件、商売道具と云う大切なものを盗賊から守る為に、一際強固な砦で囲まれ建っていました。
ティーン教会が建設されるまで、旧市街広場はこの辺りまで広がっていました。

同建物の別名が、古いドイツ語で賦課金、税金を意味するUngeltウンゲルトであることが表しているように、外国人商人はここで関税を徴収されていました。また、入口では関税の半分に相当するお金を用心棒料として取られていたそうです。

11世紀頃に建設され1774年まで税関としての役目を果たしており、外国人商人は全員ここに集められ、税金を取られ、この中で寝泊りしていました。
また現在ティーン教会が建っている当たりに、病院が有り、長旅の途中で患った病気を治療していたそうです。この病院はチェコで最古の病院ではないかと考えられています。

このティーンには以下の様な言い伝えが有ります。
『聖戦のシンボル』
ティーン中庭の古い建物の前に描かれている壁画は、聖ルドミーラがこの辺りに住んでいた事を物語っています。
ドラホミール王女はプラハのキリスト教徒を迫害していました。迫害に耐えかねたキリスト教徒は遂に反撃し、旧市街広場は戦場と化し血の海と成りました。
ドラホミーラ軍は遂に聖ルドミーラの家にまで辿り着きました。
キリスト教のシンボルである聖ルドミーラは攻撃の標的となり、逃げまどう彼女は遂に打ち首となり果てました。
最終的に勝利したキリスト教徒は、彼女の死を悼み館の外壁に戦いの様子を描きました。
[参考文献;PRAŽSKÉ POVŠSTI A LEGENDY, Sebral JOSEF SVÁTEK, PASEKA]

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